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help RSS イラク戦争(その2)

<<   作成日時 : 2010/02/06 06:36   >>

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迅速な攻略  2003年3月19日に開戦を宣言すると、翌3月20日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始しました。ウムカスルやルメイラ油田を攻略し、南部最大の都市バスラの攻防戦で幾分足止めを食らいますが制圧。鉄道と道路沿いを西に向かい、ナーシリーヤでクートに北上する部隊とサマーワを経てユーフラテス川沿いにヒッラを目指す部隊に分かれ、4月にバグダッドで合流して突入、これを攻略しました。この攻略に際して米進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとの情報を出し、バグダッド市内にいた共和国防衛隊、特別共和国防衛隊の戦車などが進攻部隊攻撃のため市内を出たところ空爆によって大半が破壊されました。これは市内での空爆の困難さからうまく市街地の外に戦車などを出す戦術ともいえます。
合わせて北部のモスル、ティクリート、キルクークには空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略しました。 全土の攻略に1ヶ月強というすさまじい速さでの占領でした。その迅速さは戦争開始前後から積極的にメディア工作をおこなっていたサッハーフ情報大臣がバグダッドの平穏を強弁しているその後ろを米軍戦闘車両が通過する、といった映像が放映される一幕を演出するほどでした。

小規模兵力とハイテク兵器の投入  投入された兵力は1991年の湾岸戦争が66万人であるのに比較して、26万3千(アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊で約10万、イギリス軍3万。海空軍、ロジスティク、インテリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約21万4千、イギリス軍4万5千、豪2千、ポーランド2.4千)と非常に少ないのです。GPS誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊するドクトリンとしました。
これは、湾岸戦争後にコリン・パウエルによって提唱された「パウエル・ドクトリン」と呼ばれる戦争のスタイル(圧倒的な兵力を投入し、短期間での勝利を目指すもの)と対照的です。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていました。
この計画を積極的に提唱したのはラムズフェルド国防長官だと言われています。同長官はかねてより、パウエル・ドクトリンはベトナム戦争からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明しています。
実際にイラク戦争では、開戦劈頭における航空機のピンポイント爆撃をはじめとする空爆と巡航ミサイルによる結節点の破壊によってイラク軍の指揮系統は早期に崩壊しました。組織的抵抗力を開戦直後にほぼ喪失したイラク軍は、各地で散発的に抵抗するしかなくなり、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握りました。 事前の大方の予想を裏切り、アメリカの陸上部隊も迅速にバグダッドまで進軍することに成功しました。このことはアメリカの圧倒的軍事力を一時的なイメージだけであれ世界中に見せつける結果となりました。軍事大国アメリカの存在感をいっそう高め、中東を始め世界各国に改めて示すことができた訳です。開戦前から戦争が泥沼化すると予想していた研究者もいましたが、この初期の圧勝によって彼らの主張は全く受け入れられませんでした。この軍事的成功はC4ISR化(指揮・統制・監視・偵察のIT化とコンピュータ化)をいっそう促し、RMA(軍事革命)という考え方が台頭します。中国人民解放軍もこうした新しい戦争には着目し、ハイテク環境下における局地戦や、三打三防戦略といったドクトリンを生み出しています。
この戦争では無人偵察機がアフガニスタンに引き続いて使用され、続く占領下の武装勢力との抗争では、遠隔操作の無人自走機関銃がアフガニスタンと共に初めて実戦投入。戦場のロボット化が進みました。

大量破壊兵器捜索  大量破壊兵器の保有に関してはUNSCOMのスコット・リッター主任査察官、IAEAのエルバラダイ事務局長(肩書きはいずれも当時)らは当初から否定的でした。
イラク国内に入ったアメリカ軍は、大量破壊兵器の捜索を行いました。また、UNMOVICも現地入りし捜索を行いました。しかし捜索にも関わらず新たな大量破壊兵器は発見されず、2004年9月13日にパウエル国務長官は「見つからないだろう」と捜索断念を明らかにしました。
しかし、UNMOVICの報告ではイラクが大量破壊兵器に該当しないとしていたアルサムード2ミサイルの射程が安保理決議違反であると認定されたほか、炭疽菌、タブン、ソマンなどの生物兵器・化学兵器廃棄情報が確認されないなど、イラク側が申告した内容には虚偽の内容があることが明らかになりました。
2004年10月にはアメリカが派遣した調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在しない」との最終報告を提出。大量破壊兵器の情報の信憑性が薄いものであったことが明らかになりました。この事に関してサダム・フセインは、拘束後のFBIの取調べで、イラクが査察に非協力的だったのは「大量破壊兵器を保持している事をほのめかす事でイランや国内の反政府勢力を牽制しようとした」ためで、化学兵器などの大量破壊兵器は「湾岸戦争後の国連の査察ですべて廃棄させられたため最初から無かった」と証言しています。
アメリカ政府は大量破壊兵器に関するCIAの情報に誤りがあったことが原因であるとし、議会で調査が行われる事態となりました。
一方、大量破壊兵器が発見されなかったことで、イラク戦争を支持した同盟国にも動揺が走りました。最大の同盟国であるイギリスでは、ブレア首相が開戦前に「フセイン政権が生物化学兵器の使用を決定した場合、45分以内に配備できる」という報告書を提出し、情報の真偽を巡って自殺者まで出していたため「国民を騙した」として支持率が急落、任期を残しての早期退陣に追い込まれました。デンマークのイエンスビュ国防相も開戦前に「大量破壊兵器問題をめぐる報告書」を提出してイラク戦争を支持したため辞任を余儀なくされました。また、ポーランドのクワシニエフスキ大統領は「アメリカに騙された」と批判し、日本の久間章生防衛相も「大量破壊兵器があると決め付けて、戦争を起こしたのは間違いだった」と発言し物議を醸しました。オーストラリアのブレンダン・ネルソン国防相にいたっては、「原油の確保がイラク侵攻の目的だった」と開き直る発言をして批判を浴びています。
ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と述べましたが、大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、イラク侵攻に踏み切らなかったのではという質問に対しては、「興味深い質問だ」と述べただけで、明確な返答を避けました。

フセイン政権とアル・カーイダの関係  2008年3月、国防総省は正式に「フセインとアルカーイダの関係を示す決定的証拠はない、認められるのはパレスチナ武装勢力との関係のみ」とする報告書をまとめました。なお、報告全文は当初インターネットでの公開が予定されていましたが、直前になって突如文書頒布のみに切り替えられました。

占領政策  イラク戦争は5月1日の『戦闘終結宣言』によって、連合軍は圧倒的勝利という姿で、形式的にはイラクへの攻撃を終了しました。イラクはアメリカ軍のバグダッド進攻によるフセイン政権崩壊以降、国連安保理決議1483に基づいてアメリカ国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治下に入って復興業務が行われることとなりました。
アメリカ軍がバグダッドに進攻すれば市民は諸手を挙げて歓迎し、米軍と共にフセイン体制打倒に決起してくれるだろうと考えていたブッシュ政権でしたが、その観測は後に裏切られる事になります。

占領政策のつまずき  少数の兵力しか用いないという米英軍の戦術は進攻作戦においては大いに役に立ちましたが、占領政策にはひどく不向きであったと現在では考えられています。敵の軍隊のみを排除すればいい軍事行動とは違って、占領時にはインフラの復旧、治安の確保、食糧の配給など様々な活動が求められるが、兵士の数が足りないためどれも完全には行なえず、結果イラク国民の反発を招き、更に治安の悪化が進み、より多くの兵士が必要となるという悪循環を招いています。
進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった旧イラク軍ですが、大規模兵器を早々と放棄し、小型の武器弾薬をこっそり隠して米軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行い、現在も継続していると考えられています。これはフセイン自身も証言し、大統領宮殿などからも証拠を確保しましたが、湾岸戦争終結時より計画していたもので、経済制裁を受ける中で、最低限の材料で爆弾を製造する方法なども情報機関や軍によって研究されており、攻勢を受ける間は抵抗せずに地下にもぐり、攻勢をやめた占領軍に対して爆弾で攻撃をかけていると考えられた。米英軍の占領政策はこのような事態を全く予測しておらず(ないしは非常に軽視したものと考えられ)、これは明らかに情報分析の初歩的敗北であり、「戦闘終結宣言」後に大量の死者を出す結果を招きました。現代において戦場で最も重要視される情報入手・統制、リスク分析において欠陥があったことは米英占領軍にとってはかなりの痛手でした。現状ではさらに旧軍人だけでなく、武装集団や過激派も活動を活発化させており、アメリカ軍や軍属、イラクで活動する民間人やマスコミ関係者への襲撃も増加しています。
また、バグダッドなど大都市を占領すると、圧政から解放されたと感じた市民が略奪に走り、博物館の展示物や商店の品物が略奪の対象となりました。これはこのような無政府状態に対する準備が行われていなかったことの表れでもあります(略奪防止の措置は後手に回り、フォトジャーナリスト・森住卓の現地報告によれば、米英軍は他省庁を放置して石油省のみを厳重に警備していました。また、略奪物の8割ほどはイスラム聖職者などの教えによって返却されました)。また市民の略奪に紛れ、武装勢力の中には市役所や警察署などを対象に狙う者もあり、米英軍はこれも防ぐこともできませんでした。後に占領政策に移ると、市民の登録情報や個人情報、自動車の登録番号などが根こそぎ持ち去られるか、破壊されていることがわかりました。このため、車爆弾や自爆テロで用いられた自動車のナンバーが判明しても、持ち主がわからないためレジスタンス組織の検挙に繋がらなくなっています。
2009年1月、ブッシュ大統領は最後の記者会見で対テロ戦争は正当化したものの、2003年に行なった「戦闘終結宣言」は誤りであった事を認めました。

占領政策の民営化  復興業務には「ハリバートン」社、「ベクテル・インターナショナル」社らアメリカの民間企業がいくつも参加していました。戦闘終結直後に民間企業が続々と参加してくることは初めてでしたが、これら実験的な政策はチェイニーらブッシュ政権閣僚の肝いりであったと言われています。
本来は軍が行ってきた輸送業務などを、安全が確保された地帯に限って民営化し、民間企業がトレーラーなどを使って食糧や物品、軍事物資を輸送する、民間企業は同時に石油開発事業も行って利益を得る、と言うものでした。アメリカ国防総省から見れば、戦争で大きな比重を占める輸送業務を民営化することで、その分の兵力と予算を作戦に回す事ができ、効率的だと考えられました。
しかし、実際にはイラクは戦闘状態であり、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついているとはいえ、すぐに武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次ぎました。運転手にはアメリカ人の他、現地のイラク人やネパール人、フィリピン人ら賃金の安い外国人を雇用しましたが、彼らも数多く戦闘の犠牲となり、また度重なる攻撃によって幹線道路周辺は治安が悪化し、民間企業では手に余る状態となりました。アメリカ軍は治安悪化によって兵力が不足し始めると、警備業務を民間軍事会社とよばれる企業に委託するようになりました。高収入であるため、民間軍事会社に所属するかなりの数の警備員がイラクに入りましたが、彼らも数多く殺害されています。武装勢力と戦闘して死亡した者も多いのです。ただし、警備員は飽くまで民間人であるため、死亡しても“戦死者”には計上されません。民間軍事会社の社員は多くは警察、軍の出身者であり、国籍も多様です。2007年9月にブラックウォーターUSAがイラク民間人17人を殺害、24人を負傷させる事件(ブラックウォーター事件)がおき、非難を浴びました。合衆国政府は少なくとも14人の射殺には正当性が認められないと判断していますが、合衆国政府はブラックウォーター社との契約を延長しています。

反米武装勢力の攻撃  連合軍はイラクと講和したわけでも、停戦協定を結んだわけでもなく、いわばアメリカがクーデターに手を貸して旧体制を転覆、一方的に終結を宣言したに過ぎません。前述したように、イラク軍やイラク政府が地下に潜ってしまった為です。また、戦闘が終結したことにすると、復興事業に乗り出すことができ、戦闘には参加できない国も兵力を差し向け易くできると言った政治的な意味合いが強かったのです。
イラク軍は開戦前の投降呼びかけに2000名が応じる(米軍は当初8000名と発表)など戦意が低く、進攻中もほとんど反撃できず、極めて脆弱に見えました。アメリカ兵の死者は136名と湾岸戦争をさらに下回り、「イラク戦争は大成功であった」と世界に見せ付けることとなりました。しかし、サッダーム一族や政府関係者は逃亡、また実際には戦闘終結宣言以降も散発的な戦闘が続き、アメリカ軍や有志連合を標的とした攻撃も頻発するようになりました。8月には国連事務所を爆破してセルジオ・デメロ国連事務総長特別代表らを殺害(爆発の瞬間が、たまたま取材に入っていたNHKのクルーに撮影された)、国連チームの撤収に至りました。
この当時の攻撃は主にイラク軍や秘密警察の残党によるものだと考えられ、元大統領サッダーム・フセインや、彼の2人の息子に指示されていると思われました。しかし、アメリカ軍による残党狩りによって2人の息子(ウダイ、クサイ)は共に戦死、この年12月にようやくサッダームが逮捕されるに至ると、一時的に攻撃が増加したものの、事態は収束に向かうかに見えました。 ただし、この残党による攻撃によって5月までの戦闘によるアメリカ兵の死者数を上回る犠牲者が発生しました。
このように、輸送業務は麻痺状態に陥っているため、前線の兵士まで物資が十分に届いていないことが、兵士が家族に当てた電子メールなどでわかっています。特に水不足が深刻で、摂氏50度の砂漠の中で水分補給をぎりぎりまで制限されていると言います。また、現在のアメリカ軍はベトナム戦争の時代とは違って徴兵を行っていないため、イラクの状況から入隊希望者が集まらず、兵士の絶対数の確保が困難となっています。このため前線の兵士は数ヶ月で帰還できるところを、1年以上待たされていることも普通です。この人員不足をアメリカ軍は州兵(国家防衛隊)で補っていますが、彼らも同様に扱われる上、同じ州兵を繰り返しイラクに派遣するなど、待遇は悪化しています(2006年には戦傷を受けて休養中の予備役や、果ては物故者にまで現役復帰を呼びかける文書が送付されていた事が発覚しました。軍当局は“古い名簿に基づく誤った処理”と弁解しています)。さらに州兵の不在が、結果としてアメリカ国内での災害の発生・拡大に深く影響を与えることも、2005年のハリケーン・カトリーナによって明らかとなりました。
一方、石油開発は油田施設やパイプラインへの攻撃で産油量が低迷。世界第二位の埋蔵量でありながら、安定した供給を行えない上、ブッシュ大統領が発言した「世界民主化」は、民族自決に反するものであり、王政や専制であるアラブ諸国の不信感をますます募らせたため、石油危機の再来が恐れられました。このため、石油メジャーを中心に石油資源買いが発生し、原油価格は戦闘終結宣言後から急速に価格が上昇しました。
ですが2004年に入ると攻撃の対象が拡大し、連合国暫定当局が設置した新しい警察や新しいイラク軍を標的とする事件が増えました。これらで犠牲になる者はほとんどがイラク人で、残党たちはアメリカ軍への攻撃に加えて、新体制の象徴たるものの破壊を狙ったと考えられます。また、民間外国人を狙った誘拐事件も頻繁に発生し、日本人民間人も被害に遭いました。これらはイラク国内の武装勢力によるものと思われ、誘拐した人質と引き換えに軍を撤退させるよう要求するのが手口でした。ただ、彼らは宗教指導者の呼びかけに応じることも多かったのです。

大規模戦闘の勃発  2004年4月にはファルージャで反米武装勢力とアメリカ軍の間で、占領後初めての大規模な戦闘が起こりました(ファルージャの戦闘)。また、この頃から南部でもシーア派イスラム教徒が反米抗議を行うことが増え、一部の過激派が攻撃を加えました。更に、5月に米兵によるイラク人捕虜虐待が明るみに出ると、この反米運動は全国的な広がりを見せるに至ります。6月に暫定政権が発足し、体制の構築が進むと、それに対応して攻撃も行われました。この頃から攻撃は無差別性が際立ち、大都市中枢などで一般市民を狙ったと思われるテロが相次ぐようになります。無防備ないわゆる「ソフトターゲット」と呼ばれる標的を狙うことについては、残党による手口だとは考えにくいと当時から囁かれました。また、この頃から、アルカーイダ系の武装集団がシリアやイランを通じて大量にイラク入りしていると報道されました。
さらに、南部に多いシーア派の過激派民兵が8月に武装蜂起し、南部最大の都市バスラを中心に米英軍と戦闘となりました。シーア派民兵はムクタダー・サドルに率いられ、組織的な戦闘を行いましたが、民兵側の犠牲が相当数に上り、イラク・シーア派の指導者アリー・シースターニーの停戦呼びかけに応じ、1ヶ月ほどで沈静化へ向かいました。
続く11月にはアルカーイダ系の武装勢力(アメリカ軍は当時そう考えていた)の活動がファルージャで活発になり、アメリカ軍は「夜明け」と命名した作戦によって攻撃しました(ファルージャの戦闘に詳細)。しかし事前に大々的報道がなされたため、目的であるザルカーウィーらアルカーイダ系テロリストは既に逃亡、武装勢力も散った後でした。米軍が直接制圧に当たっていますが、12月後半には7割の地域で武装勢力が回復したと言われています。また、ザルカーウィーにしても、彼が真に武装勢力の指導者であったことに疑いの声が上がります。アルカーイダの犯行と思われた事件のほとんどはフセイン政権の残党によるものと言う見方が、現在では強まっています。アメリカはこの作戦「夜明け」を実行するに当たり、バグダッドの治安要員が足りなくなるため、イギリス政府に対して、バスラを中心としたイラク南東部を活動範囲としていたイギリス軍の一部をバグダッドに転戦させました。
ファルージャの戦闘の一方は米軍でしたが、他の一方は「反米武装勢力」とは断定できません。

政権発足と兵力縮小  この執拗な攻撃やテロに対し、有志連合を結成していた各国が次々に離脱を宣言しました。とくに開戦当初から支持を表明していたスペイン国内で2004年3月11日に列車爆破テロが発生したことは、派兵国に少なからず動揺を与えました。ブッシュ政権はイラクの治安悪化を理由として、派兵要員を13万人から15万に増強する旨を発表しました。さらに2004年11月のアメリカ大統領選挙終了後は20万人に増強する動きもありましたが、実際は14万5千人までの増強で抑えられました。2005年4月には憲法製作を行う移行政府が発足し、アメリカのイラク復興業務は次の段階に入りました。
ところが、2005年の夏に起こったハリケーン「カトリーナ」の襲来時、肝心の被災地で活動すべき多くの州兵がイラクに派遣されていた事が大問題にされ、救難活動が遅れたために2千人近くが死亡したとする批判が国内から相次ぎましだ。このためブッシュ政権は一部の兵力を本土に帰還させたため、イラク兵力は13万8千人となりました。12月の議会選挙の際にはさらに多い15万5千人に増員しましたが、翌2006年2月には早々と13万6千人に削減し、3月には13万3千人となりました。また、2月には正式な民主政権が発足する予定であった事から、ポーランド、韓国、イタリアに引き続き、イギリス、オーストラリア、日本が相次いで兵力削減・離脱を発表しました。しかし、シーア派とスンニ派(あるいは石油資源を巡るクルド人)の対立から政権建設は難航し、22日のアスカリ廟爆破事件によって宗派対立に発展しました。このため、日英豪3カ国の撤退計画は不透明なものとなりました。

武装勢力抗争の激化  アスカリ廟爆破以来、報復合戦となったシーア派とスンニ派の衝突は、3月に入ってからは沈静化したものの、一部で内戦の危機と報じられましたが、多国籍軍はこれを否定しました。しかし、一方で米メディアなどはイランの武装勢力が侵入してテロ工作をしていると報道し、アメリカ政府高官や軍もイランを(核開発問題を絡めて)非難しています。しかし、イラク戦争自体が情報操作の産物だった過去の例を考えれば、またしてもアメリカの責任転嫁を目的とした情報操作である可能性もあります(2007年9月現在、イラン関与の確たる証拠は公表されていません)。武装勢力にはイラク人がシーア派、スンニ派、クルド人のグループがそれぞれいくつもあり、シーア派にはイランからの支援が、スンニ派はシリアが援助しているとも言われます。ただし、シリアは少数派のシーア派系アラウィ派がスンニ派を支配する国家形態であり、イラクのスンニ派政権とは長年対立を続けてきたため、これに積極的な支援を与えているわけではないとの見方も存在します。また、フランスに海外拠点を置く旧バース党残党も他のスンニ派勢力と連携して活動を続けていると見られ(バグダッド市ドーラ地区、アザミヤ地区を実質的に支配)、国外からもイスラム原理主義勢力などが侵入していると「戦闘終結宣言」直後からささやかれていました。アメリカは内戦ではないと主張しているものの、実際のところ、これらの武装勢力が群雄割拠して、それぞれがテロ攻撃を繰り返しており、民間人の死者が増加し続けています。
一方、アメリカ兵の死者は2005年10月から減少に転じていましたが、これは危険地域の警備をイラク警察や国家警備隊、親米武装勢力に移譲しているからだと指摘されています。この間、テロ発生件数は横ばいですが、多国籍軍への攻撃は減少しており、その分イラク人を標的にしたものが増加しました。 また、2006年10月からは宗派抗争を通じて影響力を更に強めた武装勢力各派が対米攻撃を再度激化させ、米軍死者数は再び増加の傾向を見せています。
また、2006年に入って、武装勢力がイラク人の技術者や知識人を巧妙に殺害していることがわかってきました。フセイン政権は国力となる知識階級を積極的に育成してきましたが、武装勢力はこれらの人々を直接殺害、あるいは拉致してから殺害して死体を遺棄するなどの方法で、すでに医師が約300名、科学者が約100名、大学教授は80名以上が殺害されました。知識階級はバース党員や旧政府の官僚が多かった為、抑圧されてきた勢力の犯行だと考えられますが、身代金目的の誘拐も数多いのです。このような治安悪化を理由として、40万人のイラク人が危険を感じて国外へ逃亡しており、国家の基礎体力低下は避けられません。2006年にイラクにいる医師は全土で2000名程度と見られています。
このため、イラク国内において、故意にイラクを弱体化させようと動く勢力の存在が浮かび上がっています。また、フセインは初等教育にも力を入れており、湾岸戦争前に9割あった(とされた)識字率も、戦後の経済制裁とこの戦争、続く統治の失策によって5割を下回っています。


イラク戦争に突入する際に、アメリカは湾岸戦争の時とは違いハイテク兵器にものをいわせて兵士の数や兵力を減らすという戦略を取りました。そのために2ヶ月という短期間にイラクの制圧には成功しましたが、それ以後のイラクでの活動には支障をきたしました。ラムズフェルド国防長官のこのやり方は、勢い良くハイテク兵器による攻撃を行い、前回の湾岸戦争時よりも勝る新しい戦法へと移行する時代の流れを感じますが、どこか何かが欠けていました。それは、マンパワーを必要とする戦争終結後の体制としてはいささか不十分なものでした。それがアメリカ軍の新しいドクトリンであったと言えます。そして、戦争中期にはそのような当初の勢いは失せ、次第に増えるアメリカ軍の死傷者にアメリカは病んで行きました。そして、アメリカを襲ったハリケーン・カトリーナの被害の対応で、州兵をイラクに派遣していたために十分な対応ができず、ブッシュ大統領への批判が高まっていくことになります。

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