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zoom RSS 太平洋戦争、レイテ沖海戦(その7)その評価3

<<   作成日時 : 2009/09/26 06:38   >>

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画像通信不達に関する議論  本海戦ではあまり知られていないものも含めて、日米双方で通信の不達、或いは着電の著しい遅延する事例が発生しました。日本側の状況は日本語文献ではかなり明らかになっており、実態としてはこの問題があらゆる局面で指揮官や司令部の判断に重大な影響を与えていました。終戦直後米戦略爆撃調査団により行われた聞き取り調査でも多くの参謀、艦長、司令官が揃って述べたのがこの通信体制の不備でした。
中でも問題とされたのは栗田艦隊の状況把握です。特に巷間指摘されるのはサマール島沖を航進中に着電した9時45分付けの「ヤキ1カ」地点に敵機動部隊が存在する事を述べた電文で、ヤキ1カは栗田艦隊の北方にあり、電文は11時に着電した(大和のみが受信した事になっているとする所見もあります)。そのために栗田艦隊はこの機動部隊を求めて北へ向かいました。また、11時に瑞鶴が沈没し小沢艦隊司令部が大淀に移乗した旨の電文をはじめとする重要電文が大和の受信記録に残っており、東京でも受信しています。

疑念  これらのことについて戦後疑問が上がりました。論点は本当に栗田艦隊は北方機動部隊が存在するという電文を受信したのか、また小沢艦隊の誘出成功の電文を栗田艦隊司令部は知らなかったのかどうか、という点です。これらに対して栗田艦隊司令部が嘘をついているという立場に立ったのは半藤一利、大岡昇平等でした。
半藤は、通信士官として艦隊勤務の経験があった吉田俊雄と共に書いた『全軍突撃 レイテ沖海戦』の中で、25日に大和が小沢艦隊から受信した電報について箇条書きしました。それによるとサマール沖海戦で戦闘を行いつつエンガノ沖海戦中の小沢艦隊から大和が受信した電報は次の通りです。
1.十月二十四日に敵機動部隊に対する航空攻撃開始を知らせた電報
2.伊勢、日向を中核とする前衛部隊の派遣を知らせる電報
3.小沢艦隊上空に敵偵察機が現れ、ハルゼーに発見されたことを知らせた電報
4.二十五日朝、ふたたび敵艦上機の触接を受け、ハルゼーの攻撃が近いことを知らせた電報
5.敵艦上機八十機来襲、交戦中であることを知らせた電報
6.瑞鶴に魚雷命中を知らせた電報
7.小沢長官が大淀に移乗、作戦を続行中であることを知らせた電報(1100発信、1215受信)
8.敵機一〇〇機の攻撃を受け、秋月沈没、多摩落伍を知らせた電報(1231発信、1441受信)
このうち5と6は発信前に瑞鶴が沈没しましたが、残りの電報でも囮作戦の成功だと判断する事が出来、1、2、7、8は大和の電報綴に記録があるから瑞鶴の通信機は故障していない、したがって、通信不達はあったものの小沢艦隊が空襲を受けている事は分かった筈だと半藤は主張し、後年『日本海軍 戦場の教訓』にて電報の不着や遅延が重なると不自然で、それを理由に全てを隠蔽したと述べました。田村俊夫は半藤説を採りつつ栗田に情報が届かなかった理由は参謀の陰謀によるものだと述べました。
大岡は『レイテ戦記 上』にて、瑞鶴の通信機が故障していたと述べた小柳富次の証言が誤りであること、瑞鶴の通信長が戦死している事、モリソン戦史が戦艦大和の電報綴を元に書かれているが小沢艦隊が敵と接触した報告がこの綴りにはあるのに栗田艦隊の戦闘詳報にはないこと、などを疑問点としてあげています(一部は半藤が『全軍突撃 レイテ沖海戦』で挙げた点を援用しています)。また、大岡は、例え愛宕に乗組んでいた第二艦隊の通信班が一部しか大和に移乗できなかったとしても大和の通信設備は完備されているし、愛宕の通信班も使えば通信業務は出来た筈である旨を主張しました。
1970年代末には大和の通信班に所属していた元予備少尉の小島清文が『文藝春秋』等で、北方機動部隊の電報を見ていないことや彼が見たという大和の艦橋の様子などを根拠に、電文は捏造であると結論しました。また、1970年代には『戦史叢書 海軍捷号作戦(2)』が発刊され北方機動部隊の電文については「問題の空母情報は第一遊撃部隊だけではなく、マニラでも内地でも受領されたことは紛れもない事実であるが、その情報源は分からない」と記されていますが、小島はこれも戦史叢書が全て誤っていると主張しました。
栗田艦隊司令部と同じ第一艦橋に居た大和副砲長の深井俊之助少佐は、戦後この電報が栗田司令部による捏造であると主張しました。深井はチャンネル桜の番組に出演して、ミッドウェイ海戦時第7戦隊司令官だった栗田が消極的な指揮をとったことと関連付け、小沢がこのことで不信感を抱き、作戦前に栗田艦隊司令部に軍刀を送って決意を促がしたと述べました(桜BBインターネット放送「人間の杜」#59/60及び『防人の道 今日の自衛隊』 2006年11月13日および15日に前編、12月に後編。当該番組の概要)。
一方、佐藤和正はこうした疑問点について強い反論を行ないました。後年左近允尚敏、都竹卓郎も目的としては同趣旨の反論を行なっています。佐藤は受信状況等について考察し結論として自軍の偵察機が栗田艦隊を見て当該の電文を発信したという説を採っています。
まず海軍の通信について主に都竹の説明を元に述べる。上述のように通信には短波を主用するが、洋上に出た艦隊は敵の無線方位測定を避けるため、傍受能力は当然維持されているが、原則として電波を発射しない。
相互の交信には、打ちたい電文を行動海域(通信区)の中継局、フィリピン方面ならマニラの第31通信隊に、遠達性の低い周波数で打ち込み、通信隊はそれを丸ごと広域短波放送にかける。受信はその逆で、今の場合マニラ放送に聞き耳を立てる。海戦中は当然電報が輻輳(そう)するが、放送の仕方は当該通信隊の戦務処理に委ねられ、特定の電報が優先されることもある。放送は、他の中継局も含め、多少の時隔を置いて複数回流される。
このような放送系を介した通信の仕組みは米軍側も同じで、25日朝の第7艦隊からハルゼー艦隊宛の幾つかの救援要請電は、平文にも関わらず到達に1時間前後を要しています。
なお、電報番号で表示される発信日時は、電波に乗る前の「起案」時刻です。受信日時は電信員がその暗号電報を取り終わった、いわば「着電」時刻であり、どちらも字義通りの効能を持つ迄に、相当のタイムラグがあります。
なお佐藤和正は、放送を介した通信の仕組みとは明言していませんが、無電は一回だけ相手を呼び出すのではなく、呼び出しは無しで定められた周波数によって数回に渡り連続打電するものであり、呼び出しが一日半に及ぶ事もあると述べました。

小沢司令部の認識  栗田司令部に小沢艦隊からの敵誘致成功の電文が届かなかったのが事実だとして、それ以前の問題として小沢艦隊が栗田艦隊の再反転の無電を受信していないのではないか、という疑念があります。つまり小沢司令部が栗田艦隊の反転を知らず、栗田艦隊は撤退していると考えていたがために、自艦隊の状況を積極的に打電しなかったのではないか、だから栗田艦隊で受信できなかったのではないか、ということです。これは佐藤和正の「艦長たちの太平洋戦争」内で第四航空戦隊司令官の松田千秋少将が「戦闘終了後小沢が「栗田の再反転を知らなかった」と言っていた」と証言しており、また「小沢艦隊は再反転の電報を受信していない」とも言っていることが根拠となっています。
栗田艦隊が反転したのが24日16時前、これを報じたのが同16時、この電文を小沢艦隊が受信したのが20時でした。それ以前に小沢は2の電文を打っており17時15分に大和に着電したことは確認されています。この1分前に栗田は再反転命令を出していたのですが、これはすぐに発信されませんでした。既に連合艦隊司令部からは栗田艦隊宛に再反転命令の電文が打たれており、これは受信していた小沢長官も栗田艦隊の再反転に期待していたようですが21時を過ぎてもそれが着信しないため、単独の進撃は危険と考えた小沢は21時30分、先行して南下していた四航戦の松田少将に対してに対して反転、北上するよう命令した上で、22時30分部隊を一旦全艦北上させました。このとき松田部隊はシャーマン隊の至近距離まで接近しており、これに両軍は全く気づきませんでした(戦後になって両軍記録より判明)。もし、栗田艦隊の反転電文が達せず、松田部隊が進撃を続けていれば米機動部隊に対して砲撃戦を仕掛けることが出来たという事になります。
栗田は19時39分になってミンドロ島サンホセ基地の水上機部隊に対して自隊への敵情報告命令を出し(連合艦隊司令部では受信せず)、これが初めて再反転を示唆する電文となりましたが、連合艦隊に宛てて直接再反転を報告したのは21時45分になってからでした(連合艦隊司令部では受信)。しかし、この2本とも小沢艦隊では受信していないのです。従って小沢は栗田の再反転を知らぬまま25日の敵空襲を受けることとなりました。小沢は25日7時32分に4の電文を発し、同8時15分に5の電文を発していますが、いずれも短い電文であり二報しか打電していません。これは小沢が栗田艦隊が再反転したことを知らなかった証左であると、佐藤は述べています。もし小沢が栗田が進撃していることを知っていれば「敵誘致成功」の電文は栗田が確実に受信できるようにもっと多く、長く伝えていたはずだとし、瑞鶴被弾後に四航戦や「大淀」に打電を代行委任せず、「大淀」に移乗するまで現況を打電しなかったこともこれで説明が付くとしています。「栗田司令部が再反転の電文をすぐに打たなかったこと」これが栗田司令部の"小沢艦隊の状況不明"の原因となったと佐藤は指摘しています。

電波伝播  当時日米両軍が多用した短波通信は、電離層の反射を利用して見通し距離外との通信を行うものです。しかし大戦中は太陽黒点活動が活発となり、電離層が不安定な時期が続き、しかも低緯度地方にその影響が集中したと述べました。周波数によってこの悪影響は程度が異なりますが、日本海軍は2-4MHzの短波帯であれば影響が低い事を突き止め、同周波数帯の無線機の開発にかかりましたが、その前に戦争が始まったため電波予報を出して事前策としていました。また、大和のアンテナは地上に設置されたものに比べて設置上の制約が大きく、10m程度のものであり、しかも常に移動するという悪条件です。船舶通信についての教育テキストでは日本標準時プロジェクトのような「報時」について言及がなされますが、一つの周波数のみでは伝播しない区域があることを考慮し、短波では複数の周波数で発信を行っています。この他短波の受信状況は日中か夜かでも変化し、その傾向分析を行っている事例もあります。また遠方で受信できた場合に近距離であれば必ず受信できるとも限らないのです(鈴木治『船舶通信の基礎知識』) 。佐藤の記述には「電波の突き抜け現象」による記述もあります(デリンジャー現象ないしスキップ・フェージングを指すと思われる)。

送受信組織の状況  受信状況については、愛宕沈没により電測士は清水少尉、司令部付暗合士の小林(剛)、広瀬両少尉が戦死、小林(敏)少尉は救助されましたが高雄でブルネイに帰投しました。大和に移乗出来た通信班員は小島を含む2人の予備少尉だけであり、大和が旗艦となった事で通信班が艦隊司令部付と第一戦隊司令部付に分けられたため、オーバーワークとなり、且つはじめて聞く送信員の打電を処理しなければならなかった事で通信能力が低下しました。このことは都竹によれば大和戦闘詳報の「戦訓の部」に記されており、電信員の数は一応定員を満たしていましたが、速成教育を受けただけで、当直を任せられない新兵が多いため、戦闘中でも最低1直交代という原則を1直半にせざるを得ず、その上切断空中線の復旧といった応急作業が頻繁に飛び込み、古参兵は疲労困憊(ぱい)の極に達しました(なお、無線通信士の間ではしばしば電信員固有の癖について指摘されます。この癖により、暗号数字の誤受信、ノイズ混入による欠字などにより、年間受信量の30%が受信不能となっていたといいます。佐藤は欠字が多い場合は暗号士に回送されても翻訳不能として没にされたと推定しています。なお、『海軍艦隊勤務』では大和の定員表を推定する記事が掲載されており、機密性の高かった同艦の詳細な定員は不明な部分が多いのです。
従って、半藤が自著で大和の通信設備に被害が無かったように記しているのは明確な誤りです。

受信時の戦況  佐藤和正は瑞鶴が第一報を発信した午前7時32分頃は栗田艦隊は海戦中で、その指揮に追いまくられていたと述べ、瑞鶴のアンテナが第一次空襲で損傷し、補修したことを挙げました。また佐藤は「ヤキ1カ」を栗田艦隊を敵艦隊と誤認した味方航空機によるものと推定しています。

第一機動艦隊の場合  神野正美『空母瑞鶴』によれば、第一機動艦隊は戦闘詳報でこの件について指摘し、問題があった電文として5件を挙げています。呉に帰還後調査も行なわれました。その原因分析としては次のような点が挙げられ、通信能力に優れた艦を旗艦とするべきことや台湾の高雄に展開していた通信隊の能力強化が戦訓として指摘されていました。
1.瑞鶴の送信勢力不充分
2.味方との混信
3.電信部通信指揮官間の錯誤
4.通信隊における受信状況の差異
また神野によれば、同艦隊の情報参謀であった山井實夫はこの問題について次のような点を指摘しています。
1.使用電波、周波数の種類による時刻別の伝播特性
2.発信源のアンテナ効果(指向性、空母についてはアンテナマストの起倒状態、倒れていると見通しが非常に悪化する)
3.戦闘中の艦内伝達の難易
4.電波の伝播経路の空間状態
なお、佐藤和正は司令部が大淀に移乗した後には不達は無くなったと述べています。

アンテナ  これに関連して松井宗明によれば、艦艇は秘匿性が要求されたり遠距離の特定海域から本国に通信する場合などは八木アンテナなどの指向性アンテナを用いますが、通常は無指向性アンテナを使用します。マストや上部構造物を利用して展張する展張型アンテナは、ほぼ無指向性です(艦船用の通信設備についての一般的な解説は『世界の艦船1989年2月号』「特集・艦隊通信」他に拠る)。
原勝洋によれば、大和はシブヤン海海戦時に展張していたアンテナケーブルが断線し、被害が重大なものであったため予め積み込んでおいた修理部品も不足したと述べています。断線したケーブルは雑音を誘起し、通信の障害となりました。また、自艦の対空砲火による震動が無線機に悪影響を及ぼし、2つある受信室のうち一つは業務が不可能となっていました。都竹は、増強された高角砲の発砲振動を強め、通信環境には悪影響であった可能性を指摘しています。このことにより大和は10月24日は送受信に著しい障害があり、31通の電文に問題があったといいます(31通の内訳について、原は本海戦を扱った『決戦戦艦大和の全貌』で述べていません)。原は戦闘時の通信対策で課題を残したと総括しました。

その他の状況  当時熊野に士官として乗組み、戦後海上自衛隊で統合幕僚会議事務局長などを努め、情報畑の著書・論文発表が多い左近允尚敏は艦艇研究家の田村俊夫が半藤の主張を汲み入れて『海交』で疑念を呈した際、大和が受信した小沢艦隊の電報について分析を行い、『栗田艦隊の反転』にて反論しています。主な点としては大和に着電した電報だけでは判断する事はできないと言うものであり、7、8から分かるのは100機に空襲されて旗艦が沈んだ事だけであり、「ハルゼー機動部隊が北につり上げられ、敵主力は南方にいないことが十分に読みとれるはず」という半藤の推理を否定しました。また、8時46分に瑞鶴は送信不能となり、以降は大淀からの送信だったと指摘しました(瑞鶴の状態についての同種の指摘は佐藤和正も行っています)。
また左近允は小島が7の「大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス 一一〇〇」を指摘してを翻訳して敵機動部隊だと即断したこと等数点を挙げて、どのような手段(航空機か潜水艦か)で攻撃されたのかも、被害の程度も書かれていないのに何故作戦が成功したと判断できるのかについて矛盾があることを指摘しました。また、左近允と都竹卓郎は小島の方が嘘をついていると批判しました。戦後日本大学教授となった都竹は大和で通信士官をしており、小島が文芸春秋に投稿した記事の中でも怒りっぽい士官として描かれていますが、24日18時頃ガンルームで食事中に艦橋に呼び出された件を例に、全員が戦闘配置に就いており悠長な状況ではなかったと述べました。また「海軍の通信系の仕組みを全く知らず、『大和』が聯合艦隊や各艦隊の司令部と、ダイヤル即時通話さながらに、直接交信しているものと、思い込んでいたようである」と述べ、その上で大和戦闘詳報の資料批判と日本側の作戦行動の問題点を指摘しました。また両者は小島が不戦兵士を自称し、反戦活動を行なった事を批判しました(なお、小島の活動については現在中帰連などで確認ができます)。

総論  時代により入手可能な資料や価値観が異なる面もありますが、概ね上記のような種々の視点が提供されてきました。この他の事実としては、上陸船団に十重二十重に支援艦隊がつけられるのは常識であり、日中戦争や開戦初期の日本軍の侵攻作戦でも行なわれてきた事例が複数あります。その中で栗田は数多くの作戦に参加し、通商破壊作戦で戦果も挙げた経験がありました。また、実戦で示されたように米軍の索敵能力は「敵を発見する」という意味では高いものであり、戦意も高いものでした。また、損害を無視した目的の貫徹という視点についても、船団に接触する以前に全滅するほどの損害を受ければ達成は不可能です。
このことに関して、後の批評家は、上記で述べたように、反転しなかった場合には日米で戦艦同士の艦隊決戦が発生することをほぼ暗黙の前提としてきました。しかし栗田艦隊は「空襲を脅威と認識し輸送船団も揚陸を終えているだろうから期待しえる戦果は極めて少ない」と考えていました。
作戦目的の是非以外とは別に、明らかにされてきた経緯への評価は次のようなものがあります。栗田艦隊の突入は小沢機動部隊の囮作戦及び味方基地航空隊の航空攻撃による、言わば事前のお膳立てと連携したものでしたが、成功するかはやってみなければ分からない、言い換えれば戦況が流動的である事も両派から指摘されます。事実、計画策定後基地航空兵力はダバオでの誤報や台湾沖航空戦で弱体化し志摩艦隊は遊兵化しました。これらは上部の連合艦隊司令部や並立する南西方面艦隊司令部の責任が大きく、その他日本側の判断ではどうしようもない作戦能力(特に偵察などの情報収集力)の低下がありソフト、ハード、量の全てで米軍とは雲泥の差でした。
そして、作戦開始後には小沢艦隊による誘出はシブヤン海海戦の後まで遅延し、西村艦隊の突入繰上げによっても遊撃部隊の突入タイミングは乱れ、栗田艦隊には『アメリカ側(主に第7艦隊)の状態』で述べたような兵力が立ちはだかりました。なお、栗田艦隊のレイテ突入は、栗田艦隊司令部の言を信用するならば、小沢艦隊からの連絡は司令部の知るところではなく、味方基地航空隊の攻撃が行われているとの連絡もなく、支隊である西村艦隊もどうやら全滅したらしいという認識から、作戦の前提が崩壊しているという認識を持っていました。
そして、栗田艦隊をはじめ日本側は直前のサマール沖海戦で、米正規空母部隊の一群を撃破したと認識しています。この種の誤認は戦場では多発するものであり、偵察を重視していたアメリカ海軍でも多発しました(一例としてはマリアナ沖海戦時、敵は発見したものの大和型戦艦を主力とする日本艦隊を艦のサイズを見誤ってその戦力を過小に報告した事があります)。小沢艦隊からの囮成功の連絡もなく、自分の艦隊が(小沢艦隊が囮となって誘引するはずの)米機動部隊の一群をすでに捕捉・撃破している(という認識を持つ)状況下で、小沢艦隊の米機動部隊誘引作戦が成功しているなどという「正しい」認識を持つのは不可能であり、戦果を挙げたと認識している以上海軍上層部が作戦後に艦隊司令部等に処罰を行うことはありえません。
また、栗田艦隊は真偽はともかく北方機動部隊の電報を前提に動きました。これを放置した場合の脅威を想定したことを指摘する向きもあります。もちろん栗田艦隊は北方機動部隊と会敵しませんでしたが、日本側が考えていた敵機動部隊たる第3艦隊は、陽動に引っかかったことに気づくと各部隊から戦闘艦艇を引き抜き、それら護衛艦を集結して大部隊とするより追撃を重視して栗田艦隊に向かいました。一部の評論家が夢想した、「ヤキ1カに居たとしても逃げるだけで、機動部隊は護衛艦も含め水上戦には無力である」と言ったイメージとはかけ離れた姿でしたし、都竹や小柳の証言に見られるように、日本側もそこまで機動部隊を軽んじていた訳ではなく、有力な敵だと見做していました。アメリカ側だけでなく日本側にも開戦初期以来、数々の海戦で護衛艦艇を攻撃的に使用し、或いはそのように使用する含みを持たせ運用してきた実績がありました。
上で述べたように日本側では総じて事前準備、組織間の情報伝達、連携の調整の失敗が多くの者に指摘されます。上記のほか例えば外山三郎も兵力差の他の重要な要因としてこれらを挙げています。最終段階の栗田艦隊の行動を中心に意見が分かれる部分もありますが、資料批判を行なう評者の中には一部の批判に対しての反論もあり、日本軍批判であれば中身は何でも良いわけではない旨が指摘されることもあります。
また、栗田が艦艇を保全したことは、数度にわたって行われた日本軍の逆上陸作戦(多号作戦、成功例もある)での護衛艦確保という意味で有益でした。米機動部隊は残存日本艦隊の攻撃に大きなリソースを割いており、艦艇がレイテ湾で全滅していれば、米機動部隊の陸軍部隊に対する空襲支援はより強力なものとなったでしょう。従来の通説による栗田中将(或いは栗田艦隊)批判は、誤った情報を前提とした評価によるもの、残弾論争のように物証に乏しいものが多く含まれています。また奥宮の「消化試合」という言葉に代表されるように誰が指揮を行なっても史実以上の成果が得られたかは疑問であり、それだけ戦況は日本側に不利でした。
昭和30年に刊行された戦記である伊藤正徳の『連合艦隊の最後』において、本海戦は、
「無理の集大成であり、そして無理は通らないという道理の証明に終わった」
という評価が成されている。

創作物での取扱い  この戦いは純粋な商業的な対象ともなり、文学作品、映画、更にはゲームや仮想戦記が出版され、純粋な娯楽に該当するものを含めその製作には戦史の評論を行なう者も多数参加してきました。これらは戦史に興味を持つ者を主たる販売対象としています。創作物の中でも作戦に対する視点は多様であり、例えばゲームではいわゆる史実に沿った作戦展開の中を前提し、プレイヤーに両軍の置かれた状況を理解してもらうことを重視するか、プレイヤーの裁量を重視するかで違いがありました。また、対象期間においても、スタートを米軍進攻による捷一号作戦発動後とするか、背景の項で見たように史実でも検討の俎上に上がった台湾やミンダナオ進攻などの選択肢を反映するため、更に早い時期からのスタートとするかなどの違いが見られます。これに関してゲーム雑誌では、史実への批評を行ないつつ、その結果を知るプレイヤーに対してどのようにゲームをデザインするかについて、製作者側から意見の表出がありました。ただしゲーム、仮想戦記ともに、栗田個人に対しては批判的評価を反映したものが殆どです。
ゲームという意味では戦いをゲーム的状況としてゲーム理論の方からテーマとされることもあり、商業ウォーゲームとの繋がりも絶無ではありません。


技術的な側面からこの戦争を分析してみてもなんら意味を成しません。それは、そのような観点からこの戦争を評価しても、それ以上に過酷であったということがその理由です。枢軸国であったドイツにおいては、ヨーロッパ戦線において、ナチスの起こす行動が、ヨーロッパ全土を地獄絵とし、そして、最も残酷な行為であるホロコーストを生みました。この太平洋戦争においてはガダルカナル島やインパール攻略戦において、補給が途絶え餓死者が数多く出たり、日本兵同士での人肉を喰らうなどという惨劇が起こりました。この太平洋戦争自体が狂気であり、司馬遼太郎さんもこのような状況を描くことにはためらいがあったに違いありません。

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