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zoom RSS 第二次世界大戦(その2)ドイツ軍の強さ

<<   作成日時 : 2009/07/13 06:34   >>

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画像経過(欧州・北アフリカ)  大戦は、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻したことに始まります。1940年にはドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増し、1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。同年末には日本とアメリカが参戦してドイツの戦況に影響を与えました。1942年にはドイツ、イタリアの枢軸国は徐々に行き詰まり、1943年には連合国が優勢になり、枢軸国は北アフリカを放棄し、イタリアが降伏。1944年には連合国の勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは自殺。ナチス・ドイツは降伏して欧州における戦争は終結しました。

1939年  9月1日未明、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など機動部隊約150万人、5個軍でポーランド侵攻。ドイツ軍は北部軍集団と南部軍集団の2つに分かれ、南北から首都ワルシャワを挟み撃ちにする計画でした。 ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えるが、戦争準備ができておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しく、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu-87急降下爆撃機の連携による電撃戦で殲滅されました。ただ、当時のドイツ軍は、まだ実戦経験が乏しく、9月9日のポーランド軍の反撃では思わぬ苦戦を強いられる場面もありました。
ソビエト連邦は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日、ポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達しました。一方、ポーランドとの相互援助協定が有るにも関わらず、イギリスとフランスは、ソ連に対し宣戦布告はしていません。また両国はドイツには宣戦布告しましたが、救援のためポーランドまで進軍してドイツ軍と交戦はしていません。またヒトラーとしては、以前から宥和政策を実施し、反共産主義という点で利害が一致していた英仏両国が、宣戦布告してくるとは想定していませんでした。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までに、ポーランド軍は降伏しました。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命しました。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まりました。ソ連軍占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害又は国外追放されました。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年の春まで西部戦線に大きな戦闘はおこらなかった事(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間に、「たぶんクリスマスまでには停戦だろう」という、根拠の無い期待が広まりました。11月8日にはミュンヘンのビヤホール「ビュルガー・ブロイケラー」で、家具職人ゲオルグ・エルザーによるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きますが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了したため難を逃れました。なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画も、その後何回か計画されましたが、全て失敗に終わります。
ソ連はバルト3国及びフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通しました。しかしフィンランドはソ連による基地使用及びカレリア地方の割譲などの要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日からフィンランドに侵攻(冬戦争)。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となります。さらに12月中旬、フィランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被りました。

1940年  2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始。フィンランド軍防衛線を突破しました。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和しました。 さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合しました。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させました。
4月、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し(北欧侵攻)占領しました。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失いました。
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグのベネルクス3国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結びました。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大要塞・マジノ線を迂回。アルデンヌ地方の深い森を突破し、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ナチス・ドイツのフランス侵攻)、フランス/イギリスの連合軍を英仏海峡のダンケルクへ追い詰めました。 一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が妨害をしなかったため、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、精鋭部隊は撤退させる事に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出しました。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述しました。
さらにドイツ軍は首都パリを目指します。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見てムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスとフランスに対し宣戦布告しました。6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けてないほぼ無傷のパリに入城しました。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印しました。なお、その生涯でほとんど国外へ出ることが無かったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国しました。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる政権ヴィシー政権が樹立されます。
一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援しました。
7月3日、イギリス海軍H部隊がフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍艦船を、ドイツ側戦力になることを防ぐ目的で攻撃し、大損害を与えました(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていませんでした。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行いました。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったが失敗に終わりました。
西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「アシカ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて学童疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗しました。
イギリス空軍は、スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケルHe-111やユンカースJu-88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していましたが、やがてロンドンなど、イギリスの諸都市に対して無差別爆撃を行いました。メッサーシュミットBf-109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被りました。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。その後、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にします。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備をきちんとせず性急に侵攻しましたが、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被りました。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるありさまでありました。 この年には枢軸国の日本、ドイツ、イタリアが日独伊三国同盟を結んでいます。

1941年  イギリスはイベリア半島先端の植民地、ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレキサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海を確保して枢軸国軍に対する反撃を企画していました。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐しました。
一方ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退しました。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲しましたが、占領はできませんでした。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まりました。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破しましたが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され。翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退します。
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国やブルガリア王国などのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領しました。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画しましたが中立国スペインはこれを認めませんでした。
6月22日、ドイツは不可侵条約を破り、北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始。独ソ戦が始まりました。ソ連首相スターリンは情報部から、ドイツ軍の動向を繰り返し警告されていましたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていませんでした。そのため開戦当初、ソ連軍(赤軍)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねます。ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、ソ連政府は約960q離れたクイビシェフへ疎開を余儀なくされました。しかし、その頃からドイツ軍は泥まみれの悪路に難儀し、さらに戦線が伸びきって補給に問題が生じ、前進は鈍りました。またソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。また、冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われます。
ポーランドとフィンランド侵攻、バルト3国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていた連合国側は、独ソ戦開始後、ソ連を連合国に受け入れることを決定。武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まります。一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけますが、日本は独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していました。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念します。リヒャルト・ゾルゲなど、日本に送り込んだスパイの情報により、日本の対ソ戦放棄を知ったソ連は、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分け、これがその後、影響を与える事となりました。ドイツ軍は厳寒のなか、11月19日、南部のロストフも占領し、モスクワ近郊約23kmにまで迫りましたが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退しました。ナチス・ドイツは開戦以来、かつて無い深刻な敗北を喫しました。
12月7日(現地時間)、日本海軍機がハワイを攻撃し太平洋戦争が勃発。それを受けて12月11日、ドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告。アメリカ合衆国が連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となりました。

1942年  東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となります。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開します。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からボルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス(カフカス)地方の油田地帯を目指します。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつありました。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフを占領。8月9日、マイコプ油田を占領しました。
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えました。しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定される事にります。
8月23日からスターリングラード攻防戦が開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開されました。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まっていきます。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に枢軸軍を包囲します。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35qまで接近しますが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗します。
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100qのエル・アラメインに達しました。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止します。10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回します。同盟国イタリア軍は終始頼りなく、事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見る事となります。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、アメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になりました。
政権取得以後、ナチス・ドイツ政府によってドイツ国内、また開戦後の占領地では過酷な恐怖政治が行われていました。秘密国家警察ゲシュタポ、ナチス親衛隊が国民生活を監視し、反政府的言動を厳しく弾圧したので、一般国民がナチス政権に反対する事はあまりに危険でした。この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーで、「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンぜー会議を行いました。ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、この年の7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まりました。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行したとされます。大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで継続されました。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われています。


ドイツは、当初破竹の勢いで、次々と連戦連勝を繰り返していきます。そして、フランスに攻め込み降伏させます。そして、ロシアへも攻め込みます。しかし、イタリアのふがいなさもあり、ドイツ一国で戦争をしていたようなものです。しかし、その戦時下では、占領された国々の人々は、恐怖政治の下で生きていくことをしいられます。自らの国の誇りを奪われて、特にマイノリティであったユダヤ人などの人々は、人間としての誇りさえも奪われるという悲惨きわまる状況に直面します。ドイツの破竹の勢いが、ゲルマン民族の絶対支配という妄想に支配され、もはや人間と慰してのモラルなど、もうこの世の中には存在していなかったかのようです。そのような悪夢が本当にどうして起こったのか、私には理解できません。第一大戦後の戦後処理において、一部のドイツ領が失われて、その結果ゲルマン民族の絶対的な誇りが、このような人間達の台頭を生んだのでしょうか。

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